銃によるテロをなくすには

 6月12日未明、アメリカのフロリダ州のナイトクラブで男が銃を乱射し、49人が死亡、53人が負傷しました。銃によるテロでは史上最悪であり、テロ全体で見ても、9.11に次いで犠牲者の多い惨事となりました。
 犯人はISに忠誠を誓っていたと伝えられています。このような大量殺戮が可能になる銃が、簡単に手に入るのが問題だということで、銃規制の議論も再燃しています。
 それも大切な事ですが、いちばん悪いのは、「銃」でしょうか。アメリカで、銃によって死ぬ人は年間、約三万人ですが、そのうち二万人は「自殺」です。
「銃」が悪いのではなく、なぜ命を捨ててはいけないのか、奪ってはいけないのかという、「生命の尊厳」が明らかにされていないことこそ、真の問題ではないでしょうか。

高森顕徹監修『なぜ生きる』「はじめに」には、こう書かれています。

 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。

死ぬまで求道

 大リーグ・マーリンズイチロー選手が6月16日、通算4257安打目を放ち、ギネスブックにも認定されました。
 イチロー選手は日本で首位打者になりましたが、それからアメリカに行くときに、「首位打者になってみたい」と言ったところ、笑われたそうです。しかし、それを2回も達成しています。人から笑われたことを、常に達成してきたイチロー選手は、「常に人に笑われてきた悔しい歴史が僕の中にある。これからも、それをクリアしていきたいという思いはあります」と語っていました。どこまでいっても完成のないのは、スポーツだけではありません。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部10章には、こう書かれています。


 完成のないのは、なにも音楽の道だけではなかろう。学問も芸術もスポーツも、みな円満成就というゴールはない。
「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」
「『死ぬまで求道』こそが素晴らしいのだ」
 たいていの人は、そう言うにちがいない。
 だが少し落ち着いて考えれば、「『死ぬまで求道』が素晴らしい」とは、百パーセント求まらぬものを、死ぬまで求めつづけることの礼讃であり、ナンセンスとすぐわかる。
 求めるのは、「求まる」ことを前提としているはずであるからだ。
 死ぬまで「求まらぬ」と知りながら、求めつづけることは、去年の宝くじと知りながら、買いつづけるようなもの。?それでいいんだ?と、どうしていえるのであろうか。
?求まらなくともよい、死ぬまで向上、求める過程が素晴らしいのだ?と言い張る人もあろうが、それは一時的な充実で、すぐに色あせる。?人間に生まれてよかった?という生命の歓喜とは異質なもので、真の人生の目的達成のよろこびを知っている人とはいえないであろう。

核廃絶までの道のり

 5月27日、オバマ大統領は、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪れました。
 広島訪問の理由を「閃光と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にした。私たちは、そう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをめぐらすために来た」と語っています。
「科学によって(中略)殺戮の道具に転用することができる。広島がこの真実を教えてくれる」とも語りました。
 科学の使い道を教える、真の宗教こそ、核兵器なき世界平和の基礎でしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部1章には、こう書かれています。

 長足の進歩をとげた科学は、史上、もっとも強い力を持った手段であるが、かつてない大量殺戮にも使われ、人間自体を滅ぼそうとするまでに至った。
 科学を何に使うか、その目的を教えるのが宗教の役目だ、とアインシュタインは訴えた。『私の世界観』という本には、「人生の意義に答えるのが宗教だ」とも書いている。二十一世紀が「宗教の時代」といわれるのは、もっとも大事な人生の目的を、はっきり指し示す「真の宗教」が、希求されているからであろう。

生き甲斐を酒にたとえると

 元プロ野球選手だったタレントが、覚せい剤所持で逮捕され、ファンに衝撃を与えました。裁判の結果、懲役2年6カ月執行猶予4年の有罪判決が言い渡されています。
 裁判で「現役時代はストレスや不安を野球で解決できたが、引退後は解決方法をなくし、薬物に負けた」と語っていました。
 趣味や生き甲斐、仕事は、生きる「ストレス」「寂しさ」「空しさ」を紛らわしてくれます。しかし、それは一時的な解決ですから、終わってしまえば、また辛い現実に逆戻りです。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部4章には、こう書かれています。

 ラッセルが『幸福論』で「道楽や趣味は、多くの場合、もしかしたら大半の場合、根本的な幸福の源ではなくて、現実からの逃避になっている」と言っているように、「趣味に熱中する楽しみ」とは、苦痛を一時的に忘れる時間つぶしといえるかもしれません。飲んだ酒に酔っ払っている間だけ、借金を忘れて気持ちよくなっているのと、似たようなものでしょう。

不倒の仏地にたつ喜び

 4月は14日、16日の連続して熊本で震度7地震が発生しました。
 日本にとって、この20年は、地震の20年でした。
 21年前、平成7年(1995)には、思ってもいなかった阪神・淡路大震災が起きて、6400人の方が犠牲になっています。
 さらに10年前、平成16年(2004)には、新潟県中越地震が起きて、阪神大震災と同じ震度7を観測しています。
 そして6年前の平成23年(2011)、戦後最悪となる東日本大震災が発生しました。死者16000人、行方不明2500人の大惨事となっています。東北地方と言えば、東京に集中しすぎた機能を移転する候補地であったにも関わらず、観測史上最大の、千年に一度の大地震が起きてしまったのです。
 このように日本では、この20年のあいだに震度7地震が4回も起きており、その間隔は短くなる一方です。しかも、阪神や九州など、想定外の地域で地震が起きていますから、もはや特定の地域だけ、観測を強化するということは、意味がなくなってしまいました。
 親鸞聖人が「火宅無常の世界」と仰ったとおり、いつ何が起こるかわからない、不安な世界に生きています。そんな私たちが、本当の幸福になるには、親鸞聖人の教えられた、阿弥陀仏の本願という、絶対に崩れない大地「弘誓の仏地」に立つしかないのでしょう。
 その不倒の仏地に立った喜びを、親鸞聖人は『教行信証』の最後に記されています。それを高森顕徹監修『なぜ生きる』2部9章には、こう意訳されています。


 一字一涙の思いで書き進めた聖人が、最後に筆をとられたのが、つぎの言葉だ。

   よろこばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
   ふかく如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚をあおぐ
   慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(中略)
   ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
   もし、この書を見聞せん者は、信順を因となし、疑謗を縁となし、信楽を願力にあらわし、妙果を安養にあらわさん(『教行信証』後序)

「昔、楚の国(中国)の愚人が、家宝の剣をひそかに持ち出し、急流に浮かべた舟上で、試し切りに興じていた。切れすぎた反動で、剣は飛んで水中にジャボンと落ちた。舟はどんどん流されてゆく。驚いた彼は、さっそく、剣の落ちた舟べりに小刀で、深く印を刻み込み、?やれやれこれで、剣のありかは安心じゃ?とつぶやいたという。刻印の移動が念頭にない愚かさを笑ったものであろう。
 金や財を力にしている者は、金や財を失った時に顛倒する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に失墜する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に倒壊する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた崩壊する。
 崩れるものに樹てる人生は、薄氷を踏むように不安だが、たとえ釈尊、善導、法然さまがゆらごうとも、心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に生かされた親鸞は、なんと幸せ者なのか。ますます阿弥陀如来の慈愛の深きを知らされ、師教の高恩を仰がずにおれない。
 限りなきよろこびは、返し切れない報恩に親鸞を泣かす。この弥陀の大恩を念うとき、世間の恥辱など、ものの数ではありえない。
 この書を読む人には、信ずる人もあろう。そしる者もいるだろう。いずれも、それを因とし縁として、弥陀の救いに遇い、未来永遠の幸福を獲得してもらいたい。そう念ずるばかりである」

科学も医学も幸福になるため

 3月に、人工知能「アルファ碁」が世界のトップ囲碁棋士イ・デドル9段を、4勝1敗で下しました。
 今後、人口知能は、自動運転や、医師の診療の補助など、様々な分野での応用が期待されています。機械が運転したほうが、人間よりも事故が減り、機械が診察した方が、誤診が少なくなる日が、来るかも知れません。
 人工知能が人間の頭脳を超えるのは、時間の問題でしょう。それは2045年だと予測する人もあります。その時、人間は人工知能に滅ぼされると心配する人もいます。
 それでは、何のために人工知能を作るのか、わからなくなってしまいます。科学も医学も、すべての営みは人類を幸福にするためにあります。人工知能を作ったら、人類が不幸医なるのであれば、そんな研究は、やめなければなりません。実際、有名な宇宙物理学者ホーキング博士は、「人工知能の発明は人類史上最大の出来事だった。だが同時に、『最後』の出来事になってしまう可能性もある」と言っています。
 政治も経済も、科学も医学も、すべては私たちが幸福になるためにあります。
 本当の幸福になる道を教えられた仏法を根底としてこそ、科学も医学も、真に素晴らしいものになるでしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部1章には、こう書かれています。

 やがて必ず消えゆく命、そうまで延ばして、何をするのでしょうか? 心臓移植を受けた男性が、何をしたいかと記者に聞かれて、「ビールを飲んで、ナイターを観たい」と答えています。多くの人の善意で渡米し、移植手術に成功した人が、仕事もせずギャンブルに明け暮れ、周囲を落胆させました。「寄付金を出したのはバカみたい!」支援者が憤慨したのもわかります。
 命が延びたことは良いことなのに、なぜか釈然としないのは、延びた命の目的が、曖昧模糊になっているからではないでしょうか。臓器提供者の意思の確認や、プライバシーの保護、脳死の判定基準など、二次的問題ばかりが取り上げられて、それらの根底にある「臓器移植してまでなぜ生きるのか」という確認が、少しもなされてはいないようです。
 つらい思いをして病魔と闘う目的は、ただ生きることではなく、幸福になることでしょう。
「もしあの医療で命長らえることがなかったら、この幸せにはなれなかった」と、生命の歓喜を得てこそ、真に医学が生かされるのではないでしょうか。

 世の中ただ「生きよ、生きよ」「がんばって生きよ」の合唱で、「苦しくとも生きねばならぬ理由は何か」誰も考えず、知ろうともせず、問題にされることもありません。
 こんな不可解事があるでしょうか。

テロ対策を水面に描いた絵に終わらせないために

 昨年11月14日に、パリで同時多発テロがあり、コンサートホールやサッカー場で120以上の人が犠牲になりました。ヨーロッパ全土で、厳戒態勢が取られていたにもかかわらず、4か月後の3月22日、ベルギーの空港と地下鉄の駅を狙ったテロで32人が死亡、340人が重軽傷を負いました。
 なぜ、若者が過激な思想に走るのか、世界中で原因が分析されています。
 生きる意味がわからず、何か重要なことをしたいと思っている子どもが、イスラム教徒の悲惨な現状を見せつけられ、過激な思想に触れると、容易に影響を受けてしまうことが指摘されています。「なぜ生きる」が鮮明にならない限り、どんな対策も徒労に終わるでしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』「はじめに」には、こう書かれています。

 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。