なんのための長寿か

 今「健康寿命」という言葉が、話題になっています。たしかに平均寿命は全国的に延びていますが、大事なのは「ただ長生きすること」ではなく、「健康で長生きすること」だといわれています。
健康寿命」というのは、「日常生活が問題なく送れる期間」のことです。
 平成25年の厚生労働省の発表によりますと、男性の平均寿命は80.21歳、健康寿命は71.19歳です。平均寿命と健康余命のあいだに、「9年」の差があると言うことは、9年間は、寝たきりとか、一人では歩けないとか、不健康な状態が続く、ということです。
 女性の場合は、平均寿命は86.61歳、健康寿命は74.21歳ですから、不健康な状態が12年間、続くことになります。
 ですから「健康だ、健康だ」といいましても、いつまでも続くものではありません。しかし、たとえ健康を失って、日常生活もままならないようになっても、人生には「これ一つ、成し遂げなければならない」という、大事な目的があります。寿命を延ばす前に、何のために命を延ばすのか、人生の目的を知ることが先決でしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部1章には、こう書かれています。

 やがて必ず消えゆく命、そうまで延ばして、何をするのでしょうか? 心臓移植を受けた男性が、何をしたいかと記者に聞かれて、「ビールを飲んで、ナイターを観たい」と答えています。多くの人の善意で渡米し、移植手術に成功した人が、仕事もせずギャンブルに明け暮れ、周囲を落胆させました。「寄付金を出したのはバカみたい!」支援者が憤慨したのもわかります。
 命が延びたことは良いことなのに、なぜか釈然としないのは、延びた命の目的が、曖昧模糊になっているからではないでしょうか。臓器提供者の意思の確認や、プライバシーの保護、脳死の判定基準など、二次的問題ばかりが取り上げられて、それらの根底にある「臓器移植してまでなぜ生きるのか」という確認が、少しもなされてはいないようです。
 つらい思いをして病魔と闘う目的は、ただ生きることではなく、幸福になることでしょう。
「もしあの医療で命長らえることがなかったら、この幸せにはなれなかった」と、生命の歓喜を得てこそ、真に医学が生かされるのではないでしょうか。

死そのものの「はだかの不安」

 世界保健機関WHOの組織である国際がん研究機関(IARC)が10月に、ベーコンやハム、ソーセージのような加工肉を食べると、ガンになる可能性があると発表しました。
 毎日、50グラム食べると、大腸がんになるリスクが18%高まるそうです。これで世界中の人が驚きました。発がん性の五段階評価で、加工肉は最高レベルの「グループ1」です。これは「アスベスト」や「喫煙」と同じです。
 WHOは、ようするに「食べ過ぎはよくない」という程度の、当たり前のことを言っただけなのですが、「ハムを食べたらガンになる」というメッセージだけが強烈に伝わって、世界中に混乱を引き起こしました。なぜ、大騒ぎになったかというと、「ガン」と聞くと、「死」を連想するからです。「肉を食べたら死ぬ」といわれると皆、「本当か?」と騒ぎます。皆それほど、「死」を怖れている、ということです。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部8章には、こう書かれています。

 過剰なまでの「健康ブーム」です。どんな食生活が病気にならないか、遺伝子組み換え食品は安全か、環境ホルモンの汚染は大丈夫か、テレビでも雑誌でもさかんに取り上げられています。
 風邪だと言われても驚きませんが、「ガンだ」「エイズだ」となると大騒ぎです。それらは死に至るからでしょう。
 ティリッヒ(ドイツの哲学者)は 『生きる勇気』 で、人間は一瞬たりとも、死そのものの「はだかの不安」には耐えられないと言いました。死と真っ正面に向きあうのは、あまりにも恐ろしいので、病気や環境問題と対決しているのでしょう。核戦争が怖い、地震が恐ろしい、不況が心配……というのも、その根底に「死」があるからではないでしょうか。

自殺を止めるには

 2012年に、アメリカで銃によって亡くなった人は、3万2千人ですが、そのうち64%が自殺だと言われています。
 銃と自殺の関係を分析した結果、銃が身近にあると、自殺率が高くなることがわかりました。そこでハーバード大学は「ミーンズ・マター(手段こそ肝心)」というキャンペーンを展開して、拳銃のような、自殺につながる手段を身の回りから遠ざけよう、と訴えています。
 たしかに、銃が手元に無ければ、突発的な自殺を防ぐには効果があるでしょう。しかし、本当に肝心なのは、「なぜ、苦しくとも自殺してはいけないのか?」という、「人生の目的」ではないでしょうか。
 この最も肝心な「人生の目的」が抜けたまま、「銃」という「手段」を論じていては、自殺の問題の根本解決はできないでしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』はじめにには、こう書かれています。

 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。

名利の大山

 ドイツ経済の中核VW社の不正発覚により、VW社の株価は30パーセント以上、下落しました。世界で1100万台の車をリコールしなければなりません。その罰金や損害賠償は、天文学的な金額になるでしょう。
 利益を求める「欲の心」が、経営判断を曇らせたのでしょうか。「もっと、もっと」と、欲のシャボン玉をふくらませるうちに、とうとう破裂してしまいました。これは決して、他人事ではないでしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部15章には、こう書かれています。


ノミはノミの糞をし、象は象の糞をする。どれだけの高位高官、大臣、総理経験者までが、ワイロで獄舎につながれ、恥辱の一生で終わったことか。営々と築き上げてきたものが、利益欲の大山に押しつぶされ、悲嘆に暮れる人がなんと多いことだろう。己を映す鏡に、事欠かない。

金色夜叉の百鬼夜行

 9月14日に埼玉県で、警察官の巡査部長が、強盗殺人で100万円を奪いました。
 9月24日には愛知県のラーメン店で、二人の従業員が殺傷され、約250万円が奪われました。指名手配されていた元従業員の男(27)が逮捕され、容疑を認めています。
 わずかな金のために、いとも簡単に命が奪われています。金のためなら何でもする、薄ら寒い時代になりました。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部15章には、こう書かれています。

「不幸のほとんどは、金でかたづけられる」と言ってのけた菊池寛(近代の作家)の信者は、昔も今も多数をしめる。金のためならなんでもする、金色夜叉百鬼夜行だ。
 平成十二年七月、奈良市の四十三歳の看護婦が、腹を痛めた十五歳の長女に毒茶を飲ませ、殺害しようとした疑いで逮捕された。長女には三千万円の保険金がかけられていた。この白衣の母親は、三年前にも、当時十五歳の長男と九歳の次女を同じ手口で殺し、二千万円の保険金を受け取っていた容疑もかけられているという。

名利の大山

世界最大の自動車会社、フォルクスワーゲンは、排ガス規制を、検査の時だけ逃れる不正ソフトを車に搭載していたことが発覚し、影響を受ける車は世界で1100万台に上る可能性があると発表しました。同社の時価総額の3分の1が吹き飛んだそうです。
「もっと、もっと」と利益を求める名誉欲が生んだ危機といえましょう。
利益や名声を貪る「名利」の大山の恐ろしさを知らされます。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部15章には、こう書かれています。

 この大山に押しつぶされて、無残に果てる人がいかに多いか。二十世紀最後の十一月。別の遺跡から出た石器を自分で埋めて、「六十万年前の石器発見」と事実を捏造していた遺跡調査団長が発覚。十年来の考古学研究がゆらいでいるというのだ。次々と「日本最古」をぬりかえる成果を発表、「神の手」などと呼ばれて脚光を浴びていた人物だったという。

夏休みの子供に「なぜ生きる」

 鎌倉市図書館がTwitterに、「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね」と投稿したところ、「優しいメッセージ」「俺らのころにもこんなこと言ってくれる人がいたら」など多くの人の感動を呼び、話題になりました。
 夏休みが終わり、新学期の始まる9月1日が、一年で子供の自殺が最も多い日だという調査結果を受けての、図書館の優しい心遣いです。悲しい自殺を、社会をあげて止めなければなりません。それには、「どんなに苦しくとも、なぜ生きなければならないのか」人生の目的を明らかにすることが先決でしょう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部2章には、こう書かれています。

 自殺の根本原因も、「人生の目的の重さ」「生命の尊厳さ」を、知らないからではないでしょうか。「そんなにまでして、なぜ生きるのか」人生の根底に無知であれば、ひとは死を選んでも決しておかしくないでしょう。
 一億円の宝くじの当選券を大事にするのは、一生働いても得られぬ価値があると思うからです。ハズレくじなら、ゴミ箱へ直行でしょう。割れたコップや修理のきかないパソコンなどと同様に、価値のない物は捨てられます。
 自分の生命が地球よりも重いと知れば、「ハズレくじ」を捨てるように、ビルからの投身も、他人の命を虫けらのように奪うことも、できるはずがありません。
「人生には、なさねばならない目的がある。どんなに苦しくても、生き抜かなくては」と、生きる目的が鮮明になってこそ、生命の尊厳が知らされるのです。