不倒の仏地にたつ喜び

 4月は14日、16日の連続して熊本で震度7地震が発生しました。
 日本にとって、この20年は、地震の20年でした。
 21年前、平成7年(1995)には、思ってもいなかった阪神・淡路大震災が起きて、6400人の方が犠牲になっています。
 さらに10年前、平成16年(2004)には、新潟県中越地震が起きて、阪神大震災と同じ震度7を観測しています。
 そして6年前の平成23年(2011)、戦後最悪となる東日本大震災が発生しました。死者16000人、行方不明2500人の大惨事となっています。東北地方と言えば、東京に集中しすぎた機能を移転する候補地であったにも関わらず、観測史上最大の、千年に一度の大地震が起きてしまったのです。
 このように日本では、この20年のあいだに震度7地震が4回も起きており、その間隔は短くなる一方です。しかも、阪神や九州など、想定外の地域で地震が起きていますから、もはや特定の地域だけ、観測を強化するということは、意味がなくなってしまいました。
 親鸞聖人が「火宅無常の世界」と仰ったとおり、いつ何が起こるかわからない、不安な世界に生きています。そんな私たちが、本当の幸福になるには、親鸞聖人の教えられた、阿弥陀仏の本願という、絶対に崩れない大地「弘誓の仏地」に立つしかないのでしょう。
 その不倒の仏地に立った喜びを、親鸞聖人は『教行信証』の最後に記されています。それを高森顕徹監修『なぜ生きる』2部9章には、こう意訳されています。


 一字一涙の思いで書き進めた聖人が、最後に筆をとられたのが、つぎの言葉だ。

   よろこばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
   ふかく如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚をあおぐ
   慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(中略)
   ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
   もし、この書を見聞せん者は、信順を因となし、疑謗を縁となし、信楽を願力にあらわし、妙果を安養にあらわさん(『教行信証』後序)

「昔、楚の国(中国)の愚人が、家宝の剣をひそかに持ち出し、急流に浮かべた舟上で、試し切りに興じていた。切れすぎた反動で、剣は飛んで水中にジャボンと落ちた。舟はどんどん流されてゆく。驚いた彼は、さっそく、剣の落ちた舟べりに小刀で、深く印を刻み込み、?やれやれこれで、剣のありかは安心じゃ?とつぶやいたという。刻印の移動が念頭にない愚かさを笑ったものであろう。
 金や財を力にしている者は、金や財を失った時に顛倒する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に失墜する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に倒壊する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた崩壊する。
 崩れるものに樹てる人生は、薄氷を踏むように不安だが、たとえ釈尊、善導、法然さまがゆらごうとも、心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に生かされた親鸞は、なんと幸せ者なのか。ますます阿弥陀如来の慈愛の深きを知らされ、師教の高恩を仰がずにおれない。
 限りなきよろこびは、返し切れない報恩に親鸞を泣かす。この弥陀の大恩を念うとき、世間の恥辱など、ものの数ではありえない。
 この書を読む人には、信ずる人もあろう。そしる者もいるだろう。いずれも、それを因とし縁として、弥陀の救いに遇い、未来永遠の幸福を獲得してもらいたい。そう念ずるばかりである」