親鸞の教えを語る一次資料「教行信証」

朝日新聞の記事である。

親鸞よもう一度 750回忌法要前に思想を再検討
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200803250108.html
 浄土真宗の宗祖・親鸞(1173〜1262)の750回忌の主な法要が、2011年から12年にかけて営まれるのを機に、その思想の再検討が進んでいる。明治以降に本格化した研究が、新たな資料解釈などにより、大きな転換点を迎えているからだ。

 親鸞聖人が著わしたのは、あくまで「宗教」であって「思想」ではないので、このような取り扱われ方には疑問を感じるが一般紙なので仕方がない。

 だが、東京大の末木文美士(ふみひこ)教授は「『歎異抄』だけに頼り解釈を進めるべきではない」と言う。親鸞の死から20年ほどして弟子の唯円が書いたとされており、「親鸞自身が書いた一次資料ではない」として親鸞の主著「教行信証」を重視する立場だ。

 末木教授によると「教行信証」の往生説と、空海の即身成仏説との類似点を指摘することも可能だ。ただし、読解には幅広い仏教の知識が必要で、研究者以外には「教行信証」は敬遠されてきた。「だからといって、『歎異抄』だけで親鸞を市民に語る時代は終わった」と指摘する。

 これは至極もっともな指摘である。
歎異抄」はあくまで浄土真宗では「傍流の書」であり、蓮如上人が封印されたものである。
 これを、まるで「親鸞入門」の書であるかのような扱いは、非常に危険を伴う。

歎異抄」の解釈は、正に親鸞聖人直筆のものに教義根拠を求めねばならない。

 高森顕徹氏の「歎異抄をひらく」では、その姿勢が貫かれているので頼もしい。

歎異抄』は本来、門外不出の秘本であり、読者によっては自他ともに傷つける、カミソリのような書である。聖人の教えを正しく理解した上で読まなければ、自損損他、大けがをして臍を噛むことにもなる。(高森顕徹:著「歎異抄をひらく」はじめにより)

 歎異抄解説は、著者の体験や信条に力点を置いて解説しては、ならないのである。

 親鸞聖人の一次資料『教行信証』に、今こそ立ち返ろう。