「摂取不捨の利益」 歎異抄はここにおさまる

高森顕徹氏による歎異抄解説が出る前に、「なぜ生きる」での歎異抄解説について、改めて触れておきたい。

歎異抄の18章は、第1章におさまる。
1章はまた、冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」の一言におさまる。
それはつまり「誓願不思議の救い」であり「二種深信」であると、高森氏は指摘する。

歎異抄を理解するには、第1章を理解しなければならない。
第1章を理解するには、「弥陀の誓願不思議」を理解しなければならないし、それはつまり「二種深信」の理解に他ならない。

「二種深信」の理解。
すぐにできるものではない。
だからこそ、無宿善の機には読ませてはならないと封印されたのかもしれない。


その摂取不捨の利益にあずかれるのは「念仏申さんと思い立つ心のおきた時」である。
念仏となえた時になれるのでもない。
念仏を称えていればなれるのでもない。

問題になっているのは「称えよう」という「心」であり、つまり「信心」なのである。

その「信心」の内容こそ、「二種深信」である。