秋葉原のようにしてやろうと思った

 6月22日、広島県マツダ工場で、42才の元機関社員が乗用車を暴走させ、1人が死亡、10人が重軽傷を負った。
 事前に包丁も買って、車に隠し持っていた容疑者は、調べに対し、「工場に車で突っ込んだ後、車から降りて包丁を振り回し、秋葉原の事件のようにしてやろうと思った」と供述した。
 また、「マツダ工場に入って包丁を振り回してやろうと思った。人を殺すつもりではねた」「2カ月前にマツダを首になり、うらみがあった。むしゃくしゃしていた。どうでもよくなった」とも言っている。
 怒りで、一生を棒に振る人が、いかに多いことか。

高森顕徹監修『なぜ生きる』には、こう書かれている。

「怒」という字は、心の上に奴と書く。あいつがいるから、こいつさえいなければと、問答無用で邪魔者は消せ、である。真っ赤になるから火のようで、みずからの教養も学問も火中に投げて、あたりかまわず焼き払う。怒りで五万三千石をフイにしたのは、浅野内匠頭だけではなかろう。ふられた相手に腹を立て、ストーカー行為のあげくが殺人、一生棒にふる悲劇はあとを絶たない。
 怒りは、弱い者には八つ当たりとなり、強い相手には憎悪となる。
「近ごろは悪しくなりにけり 隣に倉が建ちしよりのち」
といわれる。こちらは不幸つづきで、イライラしているのに、隣に家や蔵が建つと腹が立つ。隣の不幸をいのる心さえ出てくる始末。とても仲良くは、なれそうにない。好きな人がほかの異性と、親しそうに話をしているだけでもおもしろくない。ねたみそねみのいやらしさ、恐ろしさは、見ただけでもゾッとするから、ヘビやサソリのような心だと聖人は、嘆かれる。
 毒舌家A・ビアスは、「幸福とは、他人の不幸を見てよろこぶ快感」と 『悪魔の辞典』 に書いている。にわか雨にあって、こまっているのを見てよろこんでいる。犬にほえられ、うろたえている人を笑っている。着飾った女性が車の泥はねで、泣き出しそうなのを楽しんでいる。火事場に向かう途中で、鎮火したと聞くとガッカリする。
「旅先の火事は、大きいほどおもしろい」不謹慎であってはならないと思う下から、対岸の火事を楽しんでも、悲しむ心がおきてはこない。大きな事件や残虐性が強いほど、視聴率は上がり週刊誌が売れるのは、何を物語っているのだろうか。
 出世したとか、結婚したとか、新築など、他人の幸せはみんなしゃくのタネ。失敗したとか、離婚したとか、災難など、他人の不幸を聞くと心の中はニヤリとする。思っていることを洗いざらい、さらけ出したらどうだろう。悪魔と叫んで、みんな逃げ出すにちがいない

 誰もが、縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする、潜在的な犯罪者なのではないだろうか。