経済の行き詰まりは思想の行き詰まり

 日本ではバブルの反省から一時、『清貧の思想』 という本が話題になった。幸せになるには欲望を抑えねばならない、と考える人も少なくはないからだろう。

 百年に一度の大不況で、ヨーロッパ各国にも「清貧の思想」が復活している。

 ドイツでは、国民に倹約を勧める『出口──成長なき繁栄』という本がベストセラーになっているが、この類の本が、もてはやされているという。

 イギリスでは、政府委員会が、経済成長を前提としない「定常型経済」を目指す計画をまとめた。持続可能な社会を目指して、今後の経済成長はあきらめ、労働時間を減らす。大量消費を抑えるために、テレビ広告も禁じるという。

 欲は、ほうっておけば、どこまででも広がる。ここで立ち止まり、欲望を抑えるべきだと考えるのも、もっともであろう。

 しかし、ハーバード大学のベンジャミン・フリードマン教授は、『経済成長の倫理的帰結』で、経済の繁栄をあきらめた社会では、限られた資源をめぐって醜い争いが始まると論じている。

 欲は広がるままにするべきか、抑えるべきか。この行き詰まりに、親鸞聖人は、どう答えておられるか、
高森顕徹監修『なぜ生きる』2部23章には、こう書かれている。

幸福は「足ることを知る」と説いたのは中国の老子であった。日本でもバブルの反省から一時、『清貧の思想』 という本が話題になった。幸せになるには欲望を抑えねばならない、と考える人も少なくはないからであろう。中には、欲望を断ち切らねば幸せになれないと思っている人さえある。それらの人たちをカリクレスは、欲望のなくなったのが一番の幸せなら、石や屍が一番幸福だ、とあざわらっている。
 かといって無限の欲を満たそうとすれば、死ぬまで不満は絶えず、苦しまなければならないことになる。どうすれば幸せになれるのか、あらゆる哲学、思想は、ここで行き詰まっている。
 ところが親鸞聖人は、欲や怒りの煩悩を、減らしも無くもしないままで体験できる、驚くべき幸福の存在を、
「雲霧の下、明かにして闇なし」
とズバリ打ち出されている。