一切の滅びる中に滅びざる「まこと」

 1986年1月28日、スペース・シャトル「チャレンジャー号」が、射ち上げ73秒後に空中分解し、7名の乗組員が犠牲になった。当時、シャトルが失敗する確率は、10万分の1と言われていたという。
 一方、日本の原発の事故確率は「50億分の1」で、「隕石に当たるようなもの」とさえ言われていたが、その安全神話も、50年たたずに、もろくも崩れ去った。
 今後、どんな科学的データをもとに「安全だ」と保証しても、誰が信ずるだろうか。
 親鸞聖人は、「絶対安全」といえるようなものは、何一つ無い世の中で、ただ一つ、絶対に裏切られない「まこと」は「阿弥陀仏の本願」のみだと教えられている。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部20章には、こう書かれている。

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごとたわごと、真実あることなきに、ただ念仏のみぞ、まことにておわします
(『歎異鈔』)

「いつ何がおきるか分からない火宅無常の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべてのことは、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ念仏のみがまことなのだ」
 聖人には、弥陀の本願のほかに、まことはなかった。
「念仏のみぞ、まことにておわします」
は、
「本願のみぞ、まことにておわします」
を言いかえられただけである。
 弥陀の本願以外に、この世に確かなものは何もない、鮮明不動の「法の深信」に立つ聖人には、「弥陀の本願まことにおわしまさば……」と、なんのためらいもなく言えたのであろう。
「弥陀の本願まこと」が、つねに聖人の原点であったのだ。