死は突然やってくる暴力

 アップル社・元CEOスティーブ・ジョブズは2005年6月、米国スタンフォード大学の卒業式に招かれ、スピーチで、癌を宣告された体験を述べている。

約1年前私はガンと診断された。朝7:30にスキャンを受け、膵臓にはっきりと腫瘍が映っていた。私は膵臓とは何かも知らなかった。医者達はこれはほぼ間違いなく治癒しない種類のガンだと告げ、3ヶ月から6ヶ月より長くは生きられないと覚悟するように言った。医者は家に帰って身辺整理をするように勧めた。これは医者の言葉で死の準備をせよということだ。子供にこれから10年間に教えようと思っていたことすべてをたったの数ヶ月で教えろということだ。可能な限り家族が困らないように万事準備が整っていることを確かめておけということだ。別れの言葉を言っておくようにということだ。

私は一日中その診断と共に過ごした。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部8章には、死は突然やって来る暴力だと書かれている。

 同じく、ガンを宣告された岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は、死はまさに、突然襲ってくる暴力だと闘病記に残しています。

   死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じないのである。生きることに安心しきっている心には、死に対する用意が、なにもできていないからである。(中略)死は、来るべからざる時でも、やってくる。来るべからざる場所にも、平気でやってくる。ちょうど、きれいにそうじをした座敷に、土足のままで、ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである。それでは、あまりムチャである。しばらく待てといっても、決して、待とうとはしない。人間の力では、どう止めることも、動かすこともできない怪物である。(岸本英夫 『死を見つめる心』)

 営々と築きあげたどんな成果も、人生の幕切れでグシャリとにぎりつぶされる。長く大きくしようと努めてきたシャボン玉と同じです。
「人間は無益な受難である」と、サルトルは主著 『存在と無』 の末尾に言っています。最後、壊れるものばかりを求めるほど、悲惨な一生はないでしょう。それなのに、なぜ人々は、あくせく生きるのでしょうか。

 死は誰もがぶつかる問題である。やがて死ぬのに、なぜ生きる。すべての人に、この問いが突きつけられているのだろう。