映画も絵画も「死ぬまで求道」

 2月から上映されている映画『タイム』の監督アンドリュー・ニコルは、『タイム』を、一ヵ所だけ修正できるとしたら、どこを直したいか聞かれて、こう答えている。

「私は許されるなら、自分の作品を延々と修正し続けたいタイプ。これまでの作品も全部やり直したい。作品を完成させるには、私からフィルムを奪い取るしかない。『もう時間切れだ!』ってね。ピカソもそうだった。ギャラリーに飾られた自分の絵を見て、その場で描き直し始めたこともあるらしい。同じだよ」(NeewsWeek日本版2012年2月19日号「これまでの作品をすべてやり直したい」)

 学問や芸術、科学、医学、囲碁や将棋、剣道、柔道、書道、茶道、華道など、どこまで究めても、卒業もなければ完成もない道だから、「死ぬまで求道」といわれる。
「死ぬまで求道」が素晴らしいという人もいるが、高森顕徹監修『なぜ生きる』2部10章には、こう書かれている。


完成のないのは、なにも音楽の道だけではなかろう。学問も芸術もスポーツも、みな円満成就というゴールはない。
「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」
「『死ぬまで求道』 こそが素晴らしいのだ」
 たいていの人は、そう言うにちがいない。
 だが少し落ち着いて考えれば、「『死ぬまで求道』 が素晴らしい」とは、百パーセント求まらぬものを、死ぬまで求めつづけることの礼讃であり、ナンセンスとすぐわかる。
 求めるのは、「求まる」ことを前提としているはずであるからだ。
 死ぬまで「求まらぬ」と知りながら、求めつづけることは、去年の宝くじと知りながら、買いつづけるようなもの。?それでいいんだ?と、どうしていえるのであろうか。
?求まらなくともよい、死ぬまで向上、求める過程が素晴らしいのだ?と言い張る人もあろうが、それは一時的な充実で、すぐに色あせる。?人間に生まれてよかった?という生命の歓喜とは異質なもので、真の人生の目的達成のよろこびを知っている人とはいえないであろう。

 ゴールに向かって走ってこそ、走る意味があることは、誰でも分かるだろう。
「人生の目的」が、生きている時に完成できると教えられた親鸞聖人のみ教えこそ、全人類の求めている真実ではなかろうか。