人類究極の願い

●臨終の心を聞かれたら?

 ベネズエラの元・大統領チャベスが3月5日、病に倒れた。かつてブッシュ大統領を「悪魔」呼ばわりした反米のカリスマも、死の床では「死にたくない。お願いだ、死なせないでくれ」と懇願したいう。
 人間、生まれたからには、必ず死ななければならない。死ねば、どこへ行くのか。「死んだら、極楽に往きたい」というのが、万人の願いであろう。
 弥陀の極楽浄土へ往って生まれることを、「往生極楽」という。いつ死んでも「往生極楽」間違いなしの身になれば、現在から大安心の絶対の幸福に生かされる。この身になることこそ人生の目的であり、どうすれば「往生極楽」できるのか一つ教えられた方が親鸞聖人である。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部20章には、こう書かれている。

   おのおの十余カ国の境を越えて、身命を顧みずして尋ね来らしめたもう御志、ひとえに往生極楽の道を問いきかんがためなり(『歎異鈔』 二章)

「みなさんが、遠い関東から命がけで親鸞をたずねて来られたのは、往生極楽の道、ただ一つを問いただすためであろう」
 よく知られている 『歎異鈔』 二章の書き出しである。
 二十年間、関東で布教活動された聖人は、還暦すぎて故郷の京都へ帰られた。その後の関東では、聖人の教えを聞く人たちの信仰を惑乱する、種々の事件や問題が起きた。
「ほかに、救われる近道があるのでは」
「だまされているのではなかろうか、本当のところを、たしかめたい」
 かくして関東の同朋たちは、聖人一人を命として、十余カ国の境を越えたのだ。当時、関東と京都の往復は六十日もかかったという。道中、箱根の山や大井川など旅人の難所はいくつもあった。盗賊や山賊もウロウロしている。まさに「身命を顧みず」の旅路であったにちがいない。
 そんな彼らと、対面されるやいなや、こう直言されている。
「ひとえに往生極楽の道を問いきかんがためなり」(『歎異鈔』)
「聞きたいことは往生極楽の道、ただ一つであろう」
 親鸞聖人の説かれていたことは、「往生極楽の道」以外になかったと知らされる。
「往生極楽の道」とは何か。弥陀の誓願のことである。
「無明の闇を破り、人生の目的を果たさせる」
というのが弥陀の誓いであることは、しばしば述べてきた。これをもっと、くだいていえば、
「死後のハッキリしない無明の闇を破り?極楽浄土へ必ず往ける?大安心・大満足の身にしてみせる」
ということである。それで聖人は、「往生極楽の道」とか、「難度海を度する大船」と言われたのであろう。その弥陀の誓いに疑いが生じた関東の同朋たちが、
「?必ず浄土へ往ける?大満足の身になりたい」一つに、命をかけて京都までやって来た心情も十分理解できるのである。