なぜ人命は地球より重い

「人身受け難し、今已に受く」(釈迦)
 人間に生まれることは、難しい中にも難しい。その有り得ないことが今、有ったのだから、どれだけ喜んでも過ぎることはないと釈迦は説かれる。
 現在、地球上の生物は三千万種。そのうち蟻だけとっても、その数は人類の一千万倍に上る。たとえ幾億兆回、生まれ変わっても、人間の身体には戻れないだろう。
 だが「人間に生まれて良かった」と、一日一日が輝いているだろうか。人間に生まれさえしなければ、こんなに苦しまずに済んだのにと、恨んでいる者さえある。それは、苦しくとも生きねばならぬ理由は何か、人生の目的がわからないからである。
 不可能に近い人身を受けたのは、動物や昆虫に生まれていたら果たすことのできない、重大な使命があるからだ。そんな途方もない目的を持つ生命だから、「人命は地球よりも重い」といわれるのである。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部9章には、こう書かれている。

 人生の目的と言ってさえ古風といわれる。多生永劫の目的とでも言おうものなら、なんといわれるか。それこそ野暮の骨頂だろうから、せいぜい人生の目的と言っているだけである。本当は、一生や二生の問題ではない。そんな途方もない目的を持つ生命だから、「人命は地球よりも重い」といわれても、うなずけるのである。親鸞聖人の著述がよろこびで満ちているのも、多生永劫の目的が成就されたからだ、と知れば、より深く納得できるのではなかろうか。
 趣味や生き甲斐のよろこびはつづかない、ほんのしばらくで色あせる。
「いままでで、一番うれしかったことは?」「どんなときが幸せ?」と聞かれて、即答できる人はどれだけあろう。「いやぁ、何かいいことあったかなぁ……」という程度の記憶しか残っていないのが実態ではなかろうか。「寝るときが一番幸せかな」という若者の声は、生き甲斐や趣味のむなしさを語るに充分であろう。
 だが 『教行信証』 は「よろこばしきかな」で始まり「よろこばしきかな」で終わっている。
「『教行信証』 全巻には大歓喜の声がひびきわたっている」
と文芸評論家・亀井勝一郎は驚嘆する。