延びた命で何をする

「人類史上始めて150歳まで生きる人は、すでに生まれている」と、プルデンシャル保険は広告で言い切った。
 研究者の中には、現在、二十代の人のほとんどが、150歳以上まで生きるだろうと主張する人もある。それどころか、人類はやがて「老化」を治療して、永遠に生きられると主張する研究者までいる。
 医療の進歩は目覚ましいから、二十年後、三十年後には、想像もできない治療法が開発されていることだろう。現在でさえ、ロボットが、人間より正確に手術をするというのだから、今、二十歳の人が五十歳になる頃には、不可能も可能になっているかもしれない。だが、命を延ばすことより、もっと大事なことがあるのではないだろうか。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部1章には、こう書かれている。

 医療の現場では、命を延ばそうと懸命な努力がつづけられています。日本初の脳死移植は三大学から医師が集まり、氷詰めにした臓器をヘリコプターや飛行機で空輸。とくに心臓は、四時間以内に体内に戻さなければならないので、一分一秒を争う戦いです。脳死判定から術後の管理まで、費用はしめて一千万円を超えるといわれます。
 やがて必ず消えゆく命、そうまで延ばして、何をするのでしょうか? 心臓移植を受けた男性が、何をしたいかと記者に聞かれて、「ビールを飲んで、ナイターを観たい」と答えています。多くの人の善意で渡米し、移植手術に成功した人が、仕事もせずギャンブルに明け暮れ、周囲を落胆させました。「寄付金を出したのはバカみたい!」支援者が憤慨したのもわかります。
 命が延びたことは良いことなのに、なぜか釈然としないのは、延びた命の目的が、曖昧模糊になっているからではないでしょうか。臓器提供者の意思の確認や、プライバシーの保護、脳死の判定基準など、二次的問題ばかりが取り上げられて、それらの根底にある「臓器移植してまでなぜ生きるのか」という確認が、少しもなされてはいないようです。
 つらい思いをして病魔と闘う目的は、ただ生きることではなく、幸福になることでしょう。
「もしあの医療で命長らえることがなかったら、この幸せにはなれなかった」と、生命の歓喜を得てこそ、真に医学が生かされるのではないでしょうか。

 世の中ただ「生きよ、生きよ」「がんばって生きよ」の合唱で、「苦しくとも生きねばならぬ理由は何か」誰も考えず、知ろうともせず、問題にされることもありません。
 こんな不可解事があるでしょうか。