真仮を峻別するもの

仏教8宗派が「東京ボーズコレクション」−−築地本願寺・松原さんに聞く

「はっきりものごとを分ける考え方が浸透してきたからだと思うんです。私とあなた、生と死、善と悪、真と偽、勝ちと負け。米国は『世界の警察官』を自任して、自分たちこそ正義でイスラムは悪だという。イスラムは米国こそ帝国主義の悪であり、これはジハード(聖戦)だという。区別するのはわかりやすいけれど、それでは対立せざるをえない。本当は、そんなにはっきり区別できないところで、私たちは生きているんじゃないか。『縁起=みんな、つながっている』というのが、仏教の基本的な考え方です」

 ものごとをはっきり分ける考え方、そのものに善悪はない。

 むしろ、人生に於て、分けなければならないものがある。

 高森顕徹氏は指摘する。

 臓器移植までして、なぜ生きるのか。苦しくともなぜ自殺してはならぬのか。人命は地球より重いといわれるのはなぜか。数多い人生論が曖昧模糊で終わるのは、生きる「目的」と「手段」が峻別できないだけである。
 真仮の人生を一念で截つ「弥陀の誓願」は、まさに利剣というにふさわしい。

 生きる「目的」と「手段」を分けて考えなければならない、と。

 それは、親鸞聖人の「一念」にある。
 一念で、手段と目的が分かれる。同じものと受け取ってはならない。それは「なぜ生きる」の1部に詳しく述べられている。


 それにしても、東京ボーズコレクションは、一見、人を多く集め、にぎやかに成功したかのように見える。
 問題は、ここから如何に「一念の信心」という極めて重い信仰まで持って行くか。
 果たして、今後、教えを求める「リピーター」が生まれるのかどうか、甚だ疑問ではある。

 が、今後の健闘を見守りたい。