金メダルなんていらない

 オリンピックでは何人ものヒーローが生まれ、世界のかっさいを浴びる。だが当人の喜びは、いつまで続くのだろうか。
 水泳界のスーパースターだったイアン・ソープが、2006年11月に突然引退を表明して周囲を驚かせた。ソープ選手オリンピックに二回出場して、五個の金メダルを獲得している。しかし、以前のように泳ぐことに満足を感じられなくなり、記者会見で以下のような言葉を残して競技界を去った。

「水泳がなければ、私の人生は何なのか、という疑問がわいた。私の年齢は、まだ引退の年齢ではない。だが世界記録を破ることは、もう私の目標ではない。それにはどうすればよいか分かっているが、その興奮はもうない」

 高森顕徹監修『なぜ生きる』1部4章には、こう書かれている。

「これが私の生きがいだ」と熱中できるものがあったとしても、いつまでもつづくと、言い切れるでしょうか。
 平成四年バルセロナオリンピックで、一躍有名になったのが、中学二年生だった岩崎恭子選手です。金メダルの平泳ぎは、日本中の喝采をあびました。「今まで生きてきた中でいちばん幸せ」と、素直に喜びを語っています。十四歳で突然、人生最大の喜びが訪れたのです。
 周囲は当然、「もう一度、金メダルを」と期待するでしょう。大きなプレッシャーがのしかかってきましたが、本人は高校受験のため練習ができず、不振な記録がつづきました。何度も水泳をやめようとしたときの心中を、こう告白しています。

   アトランタの五輪に行けるか行けないかで悩んでいたころ、ああバルセロナで?いちばん幸せ?なんていわなきゃよかった。金メダルなんていらない、と思ったくらいです。(『女性セブン』 平成十一年六月)

「いちばん幸せ」が、「金メダルなんていらない」に、変わってしまったのです。なんとか出場したアトランタ五輪の結果は第十位。「何かふっきれた」彼女に、水泳への未練はありませんでした。
 学問の世界では、研究に埋没した人の、ほんの一握りだけが歴史に名を残します。ところが、あれほど進化論の発見に没頭したダーウィンも、幸福感は得られませんでした。「自分が事実の山をすりつぶして、一般法則をしぼりだす機械か何かになったような気がする」と、こぼしています。
 生きがいによる満足感も、色あせる運命からは逃れられないのでしょう。

 永遠に色あせることのない幸福こそ、万人の希求する人生の目的ではないだろうか。