「おそかった」と後悔したハイデガー

 中外日報の昭和38年8月6日号1面に、ハイデガーの晩年の日記が紹介されている。

今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異鈔を読んだ。弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり=とは、何んと透徹した態度だろう。もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び聖者の話しを聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。遅かった。
 自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった。ほかのことではない。思想・哲学の問題を随分話し合ってきたがそれらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらなかった。日本の人達は何をしているのだろう。日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといっているが私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。なんにも要らないから聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフランス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えをわがものとするであろう。そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。二十一世紀文明の基礎が置かれる。

 ハイデガーは「なんにも要らないから聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい」と訴えている。聖人のみ教えを学んで、「匂い」のある人間になり、ハイデガーのように「おそかった」と後悔する人のないようにするのが、日本人が世界にできる最大の貢献ではないだろうか。

高森顕徹監修『なぜ生きる』「はじめに」には、次のように書かれている。

 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。
「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、この深い闇の中にある。
 どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、?よくぞこの世に生まれたものぞ?の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
 聖人、九十年のメッセージは一貫して、これしかなかった。まさしく人類の迷闇を破る、世界の光といわれるにふさわしい。


 聖人の説かれた人生の目的が明らかになってこそ、ハイデガーが言うように「世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく」だろう。