「生きる目的」を明確に知ってこそ

 日本で徒労を「賽の河原」というが、これに相当するのが、ギリシア神話の「シーシュポスの岩」だ。

 神々の怒りに触れたシーシュポスは、冥土で巨大な岩を山頂まで運び上げる刑罰を科せられている。なんとか岩を運び終えると、岩は自然に転がり落ちてしまうので、この苦役を永遠に繰り返さなければならない。なるほど、意味も目的もない労働ほど恐ろしい懲罰はないだろう。
 だが、私たちの人生も、同じようなものとは言えないだろうか。カミュは、私たちの生もシーシュポスに劣らず無意味だと言っている。幸か不幸か、人間がそんな事実に気づくのは稀だから、平然と生きられるのだ。

こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。(カミュ著、清水徹訳『シーシュポスの神話』) 


 ゴールのない円周を回り続けよと言われたら、脚に力が入らない。生きる目的地を知ってこそ、心から充実した人生になるのだ。

 高森顕徹監修『なぜ生きる』1部1章には、こう書かれている。

「毎日毎日ぼくらは鉄板の 上で焼かれて 嫌になっちゃうよ」で始まるのが、子門真人の「およげ!たいやきくん」です。四五三万枚の記録的ヒットになったのは、毎日つづく単調な日常に、「嫌になっちゃうよ」と、多くの人が感じているからではないでしょうか。
「生きてきて本当によかった」という満足がなく、来る日も来る日も「食べて寝て起きて」のくり返しならば、ゴールを知らずに走っているランナーと同じです。ゴールに近づく喜びもなければ、「やった!」というゴール突破の感激もないと思ったら、足に力が入るはずはないでしょう。目的地がハッキリしていてこそ元気に走り通せるのは、人生行路も同じです。