「生活の基盤」が大事と言うが

「なぜ生きる」より、「生活の基盤」を調えて、明日、食べられるようにするのが先だと言う人がほとんどだ。
 だが、衣食住の確保をしても、それらは最後すべて、置いてゆかねばならない。

徒然草』百六十六段には、このように書かれている。

人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

 人々が忙しく働いている様子を見ると、まるで春のうららかな日に雪で仏像を作り、それを飾りたてて堂に入れるようなものだ。建物が完成した頃には、雪仏は解けて無くなってしまうだろう。

 これが人生なら、何のための人生か分からなくなる。「生活の基盤」も、最後すべて置いていくだけなら無意味になってしまう。私たちは、絶対の幸福になるために生まれてきたのだということを、高森顕徹監修『なぜ生きる』2部24章には、こう書かれている。

 蓮如上人の遺訓を聞いてみよう。

   まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも、相添うことあるべからず。されば、死出の山路の末・三塗の大河をば、ただ一人こそ行きなんずれ(『御文章』)

「いままで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、いよいよ死んでゆくときは、何一つ頼りになるものはない。すべてから見放されて、一人でこの世を去らねばならない。丸裸でいったい、どこへゆくのだろうか」
 咲き誇った花も散るときが来るように、死の巌頭に立てば、必死にかき集めた財宝も、名誉も地位も、すべてわが身から離散し、一人で地上を去らねばならぬ。
 これほどの不幸があるだろうか。こんな大悲劇に向かっている人類に、絶対の幸福の厳存を明示されているのが、親鸞聖人である。絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊
?よくぞ人間に生まれたものぞ?と、ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、万人の求めるものであり、人生の目的なのだ。