行方不明になる私

 自分のことは自分が一番知っている、と思いがちだが、「汝自身を知れ」と古代ギリシアからいわれてきたように、もっともわからないのが自分自身である。

 そもそも、「私」を見たことのある人はいない。
 毎朝、鏡で見ているのは「私の顔」であって、「私」そのものではない。「私の身体」は、「私の財布」や「私の時計」と同じで、私の所有物であり、「私」ではないのだ。

 私とは何か?

 これが、いかに重大な問いか、昨年の芥川賞を受賞した川上未映子は、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』出、次のように表現する。


「化粧ばっかりしやがって、人の目ばっかり気にしやがって、そんなんちゃうで、そんなもんちゃうんじゃほんまのことは、自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、一人称なあ、あんたらはなにげに使うてるけどなこれはどえらいものなんや、おっとろしいほど終わりがのうて孤独すぎるものなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私!!」

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部11章には、こう書かれている。


はるか宇宙の様子がわかっても、素粒子の世界が解明されても、三十億の遺伝子が解読されても、依然としてわからないのが私自身なのだ。
 心なき者のしわざか、背中に矢の刺さった痛々しいカモの映像が、視聴者のあわれを誘ったことがある。料理店で、その矢ガモのテレビを見ながら、「なんとむごいことを……」と顔をしかめて、カモ鍋を食べている人を見て、「自分のことはわからんものだなぁ」と反省させられたものである。こんな自己矛盾は、いくらでもあろう。
「昔のニワトリは、夜明けに必ず鳴いて、時を知らせたもんだが」
「今は、ニワトリまでがナマクラになりよって、こまったもんだ」
 耳の遠くなったことに気づかぬ、田舎の老夫婦の会話を聞いて苦笑したことがある。
 まさに「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは おのれなりけり」ではなかろうか。(中略)キルケゴールは自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、いとも簡単になされていると警告する(『死に至る病』)。キャッシュコーナーに、現金を置き忘れたとなれば大騒ぎするが、もっとも大事な自分を忘れていても、ちっとも驚かない

 全人類の最も大きな忘れ物を教えているのが、仏法である。