眺めている死と、目前に迫った死

 女流哲学者・池田晶子氏は、平成十九年二月、腎臓ガンのため46歳の若さで急逝した。
 遺稿となったコラムの最後に、自分を「一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書き」と記していた通り、生の意味、死の意味を問い続けた哲学者だった。

「生きても死んでも大差ない」と豪語していたこともあったが、腎臓ガンの手術を受けたあと、知人への手紙には、反対のことを書いている。

「やはり、生きようとする意志を積極的に肯定することが大切なのだと思う。私は今まで生に対する執着がないから仏になれると思っていたけれども、生きることを全うしないと成仏しないのかもしれない、それに気づいてから前向きに病気と闘おうという気持ちになりました――」

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部5章には、こう書かれている。

 死は万人の確実な未来なのだが、誰もまじめに考えようとはしない。考えたくないことだからであろう。知人、友人、肉親などの突然の死にあって、否応なしに考えさせられるときは、身の震えるような不安と恐怖を覚えるが、それはあくまでも一過性で、あとはケロッとして、「どう生きるか」で心は埋めつくされる。たとえ、自分の死を百パーセント確実な未来と容認しても、まだまだ後と先送りする。
「今までは 他人のことぞと 思うたに オレが死ぬとは こいつぁたまらぬ」
と死んだ医者があったそうだが、ながめている他人の死と、眼前に迫った自己の死は、動物園で見ている虎と、山中で出くわした虎ほどの違いがあるといわれる。
?体がふるえるような、不安や恐怖?といっても、所詮は、想像している死であり、襲われる恐れのないオリの中の虎を見ているにすぎない。山中で突然出会った猛虎ではない。

 死を観念的に捉えているあいだは、死の実態は、とても分かるものではないのだろう。