根深い人間性

 周恩来は最後、ガンによる苦痛との闘いを強いられた。病床で「マルクスからの招待状を、私はもう受け取りました」と語ったと伝えられる。毛沢東日本共産党中央委員会との最後の会談で、「孔子は七十三歳で死んだ。私はいま七十二歳だが、今年七十三歳になる。そろそろ今年の終わりごろに、マルクスに会いに行けることになるかもしれない」と語ったという。死後を否定する共産主義者も、自分の死が迫ってくれば、後生も何かが残ると認めざるをえないのだろう。それが根深い人間性である。理屈で考え「死後は無いよ」と言っている人も、本心では後生はハッキリしていない。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部5章には、こう書かれている。

「死んだ後なんかないよ」と言いつづけている人でも、知人や友人が死ぬと、「ご霊前で」とか、「ご冥福をいのります」と言う。「霊前」は故人の霊の前であり、「冥福」は冥土の幸福のことだから、いずれも死後を想定してのことである。果ては「安らかにお眠りください」「迷わずに成仏してください」などと、涙ながらに語りかけられる。遭難のときなどは、空や船から花束や飲食物が投げられるのも、しばしばである。単なる儀礼とは、とても思えない。その表情は深刻で、しぐさも神妙なのだ。
 毎年八月に戦没者の慰霊祭が執行される。通常なら、幸福な相手を慰めるということは、ありえない。その必要がないからである。死者の霊が存在し、慰めを必要としている、という心情がなければ、これらの行事は成り立たないはずだ。死後を否定しながら冥土の幸福をいのる。何か否定しきれないものがあるのだろう。
「社交辞令だよ」と笑ってすませられるのは、肉親などの死別にあわない、幸せなときだけにちがいない。
「死んでからのことは、死んでみにゃわからん。つまらんこと問題にするな」
と言いながら、有るやら無いやらわからない、火災や老後のことは心配する。火事にあわない人がほとんどだし、若死にすれば老後はないのに、火災保険に入ったり、老後の蓄えには余念がない。
「老後のことは老後になってみにゃわからん。つまらんこと」
とは、誰も言わないようだ。火災や老後のことは真剣なのに、確実な未来を問題にもしない自己矛盾には、まだ気がつかないでいる。
「考えたって、どうなるもんじゃないよ」「その時はその時さ」「そんなこと考えていたら、生きていけないよ」。頑固に目を背けさせる死には、無条件降伏か玉砕か、大なるアキラメしかないのであろうか。
 元気なときは、「死は休息だ」「永眠だ」「恐ろしくない」と気楽に考えているが、?いざ鎌倉?となると、先はどうなっているかだけが大問題となる。死後は有るのか、無いのか、どうなっているのやら、さっぱりわかっていない、お先真っ暗な状態なのだ。この「死んだらどうなるか分からない心」を、
「無明の闇」といい、また、
「後生暗い心」ともいわれる。
「後生」とは死後のこと。「暗い」とはわからないこと。死後ハッキリしない心を
「後生暗い心」とか「無明の闇」といわれるのである。