なぜ人命は地球より重い?

 埼玉県春日部市のアパートで、9月1日、小学校五年生(11歳)の少年が遺体で発見された。29歳の母親が、「睡眠薬を飲ませた」と、殺害を供述している。バスケット選手を夢見ていた少年の将来は、母によって断ち切られた。周囲からは“仲良し親子”とみられていたが、本人には深刻な苦しみがあったのだろう。

 同じ9月1日には、アメリカで心臓移植をうけた7歳の女児が、無事に成田空港に帰国し、「友だちと遊びたい」と喜びを語っていた。支援団体の募金活動によって、幼い命が救われたのだ。父親は「健史さんは「皆さまのおかげで、元気いっぱいな姿を見せられてよかった」と感謝の言葉を述べている。

 多くの人が、一人の少女の命を救おうと懸命になっている一方で、わが子に手をかける母親もいる。簡単に命が奪われている現状に、誰もがやるせない思いだろう。
 なぜ人命は地球より重いのか。親鸞聖人は、その答えを明確に教えられた方である。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部9章には、こう書かれている。

人生の目的と言ってさえ古風といわれる。多生永劫の目的とでも言おうものなら、なんといわれるか。それこそ野暮の骨頂だろうから、せいぜい人生の目的と言っているだけである。本当は、一生や二生の問題ではない。そんな途方もない目的を持つ生命だから、「人命は地球よりも重い」といわれても、うなずけるのである。親鸞聖人の著述がよろこびで満ちているのも、多生永劫の目的が成就されたからだ、と知れば、より深く納得できるのではなかろうか。
 趣味や生き甲斐のよろこびはつづかない、ほんのしばらくで色あせる。
「いままでで、一番うれしかったことは?」「どんなときが幸せ?」と聞かれて、即答できる人はどれだけあろう。「いやぁ、何かいいことあったかなぁ……」という程度の記憶しか残っていないのが実態ではなかろうか。「寝るときが一番幸せかな」という若者の声は、生き甲斐や趣味のむなしさを語るに充分であろう。
 だが 『教行信証』 は「よろこばしきかな」で始まり「よろこばしきかな」で終わっている。
「『教行信証』 全巻には大歓喜の声がひびきわたっている」
と文芸評論家・亀井勝一郎は驚嘆する。天におどり地におどる、聖人のよろこびの声を聞いてみよう。
 今は、その総序と後序だけを紹介することにする。

   ここに、愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや、西蕃・月氏聖典、東夏・日域の師釈に、あいがたくして今あうことをえたり、聞きがたくして、すでに聞くことをえたり。真宗の教・行・証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
   ここをもって、聞くところをよろこび、獲るところを嘆ずるなり
(『教行信証』 総序)

「ああ、幸せなるかな親鸞。なんの間違いか、毛頭遇えぬことに、今遇えたのだ。絶対聞けぬことが、今聞けたのだ。釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることはなかったにちがいない。
 ひろく仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人は稀である。その稀有な、弥陀の誓願を説く印度・中国・日本の高僧方の教導に、今遇うことができたのだ。聞くことができたのだ。この幸せ、何にたとえられようか。どんなによろこんでも過ぎることはない。
 それにしても知らされるのは、阿弥陀如来の深い慈恩である。なんとか伝えることはできないものか」
 はじめに、『教行信証』を起草せずにおれなかった心情を、こう述べて、六巻の『教行信証』は書き始められている。