『なぜ生きる』を考える時代

 先回に続き、『IT革命のカラクリ―東大で月尾教授に聞く!』から引用したい。

田原「僕はよくいうんですが、いままでの教育っていうのは親も教師も楽だったと思う。『勉強しろ。勉強しないとよい学校に入れない。よい学校に入れないとよい会社に就職できない。よい会社に就職できないと給料も安いし尊敬もされない。だから豊かな生活をするには勉強しなきゃダメなんだ』といってりゃよかったからね。そして、僕らはそのことがよくわかった。日本全体が貧しかった僕らの時代は、やっぱり親よりより豊かな生活、いい生活をしようというのがあったんですよ、心のどこかに。
 ところがいまの少年たち、若者たちの不幸は、親より豊かな生活っていうのが想像できないこと。僕らのときは、自分の部屋なんてないし、風呂もないから銭湯に行った。いまはもう子どものときから自分の部屋はある、テレビもある、パソコンまである。至れり尽くせりで、それより豊かなよりよい環境っていうのが、想像できない。
 しかも『勉強しなきゃいい学校に入れないぞ』といっても、少子化でどこかに入れる。いい会社といっても一流企業と思ってきたのがどんどんつぶれ、ヤフーとかソフトバンクとか、わけのわかんないのが伸びるから、いいも悪いも区別がつかない。だから『勉強しろ』に説得力がないわけね。『なぜするんだ』って反論されても、ほとんど答えがない。ここに問題があると思うんです。」

月尾「『なんのために生きるか』まで、大学が教えるのかという気もするけれど、いまの状況だと大学でも教える必要があるのかなと感じます。」

田原「いま教えるところが、どこにもない。旧制高校はやったんでしょうけど。今はどこでも『より上に行く』という勉強しか教えていない。」

月尾「手段はもう十分だ、目的は何なのだと考える時代が、日本にも来た。」(月尾 嘉男, 田原 総一朗著『IT革命のカラクリ―東大で月尾教授に聞く!』より)

「手段はもう十分だ、目的は何なのだと考える時代」が来たと言われている。
『より上に行く』という勉強しか、教えられていない子どもたちに、『なぜ生きる』を教える以上に大切な教育があるだろうか。

 すべての人に最も大事な「人生の目的」を明らかにされた方が親鸞聖人だと、高森顕徹監修『なぜ生きる』「はじめに」で、こう書かれている。

 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。
「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、この深い闇の中にある。
 どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、?よくぞこの世に生まれたものぞ?の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
 聖人、九十年のメッセージは一貫して、これしかなかった。まさしく人類の迷闇を破る、世界の光といわれるにふさわしい。