必ず死ぬのに、なぜ生きる

 哲学者・中島義道電気通信大学教授)は『どうせ死んでしまう……私は哲学病。』の中で、いやいやながらも仕事を続けている人が気付いている事実を、こう述べている。

仕事を厭々ながら続けている人は多いと思う。そういう人は一つだけ確実に真実を見ている。それは、所詮いかなる仕事も、それほど重要ではないということである。じつは、地上には命を懸けるに値するほどの仕事なんか、まったくないのである。そううすうす感じながらも、人は仕事にすがりつく。なぜなら、そうでもしなければ人生は退屈で退屈でたまらないのだから。

『どうせ死んでしまう』のに、なぜ生きる。中島義道は、自分の仕事は、この『ほんとうの問い』を問い続けることだと言う。

私は『ほんとうの問い』を表現せずに生きることはできない。それは、私が下品だからであり、俗物だからであり、弱いからであり、怠惰だからである。そのことを私は知っている。そういう私にとって、仕事をするとは、こうした匿名の人々の激しい視線に全身射抜かれながら、『なぜ、私はもうじき死んでいかねばならないのか。そして、それにもかかわらず、私は生きねばならないのか』という問いを発しつづけ、語りつづけることであるように思われる。もちろん、これもまたかぎりなく虚しい仕事であるが……どうせ死んでしまうのだからこそ豊かに生きよなどという気休めは、すさまじく真剣な問いの前では砕け散ってしまう。私もそうは信じていないのだから、そう答えるわけにはいかない。

 必ず死ぬのに、なぜ生きる。かつてトルストイがぶつかったのも、この問題だった。
高森顕徹監修『なぜ生きる』2部6章には、こう書かれている。


 五十歳近くになったトルストイが、気づいたのもこのことだった。今日や明日にも死がやって来るかもしれないのに、どうして安楽に生きられるのか。それに驚いた彼は、仕事も手につかなくなっている。

   こんなことがよくも当初において理解できずにいられたものだ、とただそれに呆れるばかりだった。こんなことはいずれもとうの昔から誰にでも分かりきった話ではないか。きょうあすにも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば(すでにいままでもあったことだが)死臭と蛆虫のほか何ひとつ残らなくなってしまうのだ。私の仕事などは、たとえどんなものであろうとすべては早晩忘れ去られてしまうだろうし、私もなくなってしまうのだ。とすれば、なにをあくせくすることがあろう? よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ――これこそまさに驚くべきことではないか! 生に酔いしれている間だけは生きても行けよう、が、さめてみれば、これらの一切が――ごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!(トルストイ著、中村白葉・中村融訳 『懺悔』)

 愛する家族もいつか、この暗い死にぶつかるのだ。そう思うと、生き甲斐であった家族や芸術の蜜も、もう甘くはなかった。作家活動は順調だったが、確実な未来を凝視した彼の世界は、無数の破片にひびわれ一切が光を失った。

「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、この深い闇の中にある。
 どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない。まさに「世界の光」である。