なぜ人命は重いのか

爆笑問題×東大『東大の教養』で、爆笑問題太田光は、こう言っている。

「一連の(いじめによる自殺)事件の中で教師の資質について話し合われることが多くあった。昔の教師に比べ、今の教師は人間的に深みがなく、生徒に教科ばかりを教え、生き方を教えることが出来ないと言われた。

『命の大切さ』を教えられる教師がいないと嘆かれた。私は教師に命の大切さを教わりたいと思わないので、この意見を聞く度に疑問を感じた。
私は“学問”とは、“命の大切さ”を疑ってみるところから始まるのではないかと思っている。

命とは何か。本当に大切なものなのか。
大切だとすればそれは何故か。

それらの疑問を持ち続けて追究していくのが学問であると私は思う。

だから“命は大切である”と断言する教師に向かって“何故”と聞き返している今の子供達は、まさに学問の入り口にいるのだと私は思う。それに対して“理屈などない”と言い捨てる教師は、学問を止めた人に思えてしかたがない」

 なぜ人命は地球より重いと言われるのか?

 ここに疑問を持つ子供こそが「学問の入り口」にいるのであって、「理屈などない」と答えるのは、学問をやめたと言われても仕方なかろう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部9章には、多生の目的を果たすための人命だから、限りなく重いのだと、親鸞聖人のメッセージを次のように書かれている。

人生の目的と言ってさえ古風といわれる。多生永劫の目的とでも言おうものなら、なんといわれるか。それこそ野暮の骨頂だろうから、せいぜい人生の目的と言っているだけである。本当は、一生や二生の問題ではない。そんな途方もない目的を持つ生命だから、「人命は地球よりも重い」といわれても、うなずけるのである。親鸞聖人の著述がよろこびで満ちているのも、多生永劫の目的が成就されたからだ、と知れば、より深く納得できるのではなかろうか。
 趣味や生き甲斐のよろこびはつづかない、ほんのしばらくで色あせる。
「いままでで、一番うれしかったことは?」「どんなときが幸せ?」と聞かれて、即答できる人はどれだけあろう。「いやぁ、何かいいことあったかなぁ……」という程度の記憶しか残っていないのが実態ではなかろうか。「寝るときが一番幸せかな」という若者の声は、生き甲斐や趣味のむなしさを語るに充分であろう。
 だが 『教行信証』 は「よろこばしきかな」で始まり「よろこばしきかな」で終わっている。
「『教行信証』 全巻には大歓喜の声がひびきわたっている」
と文芸評論家・亀井勝一郎は驚嘆する。天におどり地におどる、聖人のよろこびの声を聞いてみよう。
 今は、その総序と後序だけを紹介することにする。

   ここに、愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや、西蕃・月氏聖典、東夏・日域の師釈に、あいがたくして今あうことをえたり、聞きがたくして、すでに聞くことをえたり。真宗の教・行・証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
   ここをもって、聞くところをよろこび、獲るところを嘆ずるなり
(『教行信証』 総序)

「ああ、幸せなるかな親鸞。なんの間違いか、毛頭遇えぬことに、今遇えたのだ。絶対聞けぬことが、今聞けたのだ。釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることはなかったにちがいない。
 ひろく仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人は稀である。その稀有な、弥陀の誓願を説く印度・中国・日本の高僧方の教導に、今遇うことができたのだ。聞くことができたのだ。この幸せ、何にたとえられようか。どんなによろこんでも過ぎることはない。
 それにしても知らされるのは、阿弥陀如来の深い慈恩である。なんとか伝えることはできないものか」
 はじめに、『教行信証』を起草せずにおれなかった心情を、こう述べて、六巻の『教行信証』は書き始められている。