世の中最大の不可解事

「生まれた」ということは、海に放り出されたようなものといえないだろうか。
 芥川龍之介の『河童』という小説には、「バッグ」という名前の雄の河童の、こんなエピソードが描かれている。

我々人間から見れば、実際また河童のお産ぐらい、おかしいものはありません。現に僕はしばらくたってから、バッグの細君のお産をするところをバッグの小屋へ見物にゆきました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテエブルの上にあった消毒用の水薬でうがいをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」
 バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は水素瓦斯を抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。

 河童は、この世界へ生まれてくるかどうか、考えてから生まれてくるが、人間は、気がついたら生まれている。生まれるが早いか、どこかに向かって泳がなければならない。しかも、肝心の泳ぐ方角は、まったく知らされていないし、知ろうともしない。こんな不可解なことはないと、高森顕徹監修『なぜ生きる』2部8章には、こう書かれている。

 空と水しか見えない海で、近くの丸太ん棒や板切れ求めて、必死に私たちは泳いでいる。周囲には、風や波に悩まされたり、すがった丸太ん棒に裏切られ、潮水のんで苦しんでいる人、おぼれかかっている人、溺死した者もおびただしい。そんな人たちに、懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、政治、経済、科学、医学、芸術、文学、法律などとはいえないだろうか。
「どこに向かって、泳ぐのか」
「なぜ、生きねばならぬのか」
 肝心の泳ぐ方角が、まったく論じられないおかしさに、人々はいつ驚くのだろうか。
 世の中最大の不可解事であり、人類の不幸これにすぎたるはなかろう。

  生死の苦海ほとりなし
  久しく沈めるわれらをば
  弥陀弘誓の船のみぞ
  乗せてかならずわたしける  (『高僧和讃』)

「苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよいつづけてきた私たちを、大悲の願船だけが、必ず乗せてわたしてくださるのだ」
 一関また一関、波高ければ船また高しの、救助の大船の厳存と、方角を明示されているのが親鸞聖人である。