「死ぬまで求道」で満足か

 マリナーズイチロー外野手が6月19日、日本選手では初、大リーグでは95人目のメジャー通算2500安打を達成した。だが本人は、満足していないようだ。インタビューにも「最近思うのは、いままで打ってきた2400何本のヒットが今日の試合では何の役にも立たない世界にいるということ。気持ちいいのは一瞬しかないということ」と答えている。スポーツの世界には、卒業も完成もない。


高森顕徹監修『なぜ生きる』2部10章には、こう書かれている。

 完成のないのは、なにも音楽の道だけではなかろう。学問も芸術もスポーツも、みな円満成就というゴールはない。
「それがいいんだ、完成したと思ったら進歩がない」
「『死ぬまで求道』 こそが素晴らしいのだ」
 たいていの人は、そう言うにちがいない。
 だが少し落ち着いて考えれば、「『死ぬまで求道』 が素晴らしい」とは、百パーセント求まらぬものを、死ぬまで求めつづけることの礼讃であり、ナンセンスとすぐわかる。
 求めるのは、「求まる」ことを前提としているはずであるからだ。
 死ぬまで「求まらぬ」と知りながら、求めつづけることは、去年の宝くじと知りながら、買いつづけるようなもの。?それでいいんだ?と、どうしていえるのであろうか。
?求まらなくともよい、死ぬまで向上、求める過程が素晴らしいのだ?と言い張る人もあろうが、それは一時的な充実で、すぐに色あせる。?人間に生まれてよかった?という生命の歓喜とは異質なもので、真の人生の目的達成のよろこびを知っている人とはいえないであろう。

 永遠に色あせない、絶対の幸福こそ、万人の究極の願いであり、人生の目的なのである。