何のための延命か

 医学の進歩は、幸福ばかりをもたらしたのではない。
文藝春秋』2012年6月号は、医学の進歩がもたらした不幸もあると、次のように書いている。


 医療が進歩すれば、単純にみんなが幸せになると思っていました。しかし進歩は同時に悩みや不幸もいっぱい運んできましたね。たとえば、高齢の男性ですが、定年後の二十年をどう過ごすか。家庭には居場所もなく、みんな時間を持て余しています。デパートや図書館はそんな男性でいつもいっぱいですよ。

 また、一昔前まではお医者さんにすべてお任せでしたけど、今は様々な情報が手に入り、選択肢があり過ぎます。最善の治療を求めて医者を探せるようになったのは、時代の進歩と言える半面、この治療でいいのかと悩み、どんな死に方をしたいかまで、患者は自分で考えなくてはいけない時代になりました。

 いわゆる「延命治療」の弊害も、現代医療の陰の部分として、よく指摘されていますね。意識がない植物状態に陥っているのに点滴の管をつながれて生きている方や、食べる力がなくなり、自分では意思表示ができないままに胃ろうをつけられて生きている認知症の方がいますが、そのような状態で生きていることは、本人やその家族にとって本当にいいことなのか。悩み、迷われている方が大勢いらっしゃいます。また、たとえば、七十、八十になって、全身に転移した癌が見つかったときに、癌を切除するために何回も手術をしたり、抗ガン剤をどんどん打つのは、本当にいい治療なのか。

 医学が進歩したことで、医者も患者もその家族も常にそのような問いを突きつけられるようになりました。「いい医療とは何か」という問いは、結局のところ、人間が生きる目的はどこにあるのか、という問題に帰着すると思います。

高森顕徹監修『なぜ生きる』1部1章には、こう書かれている。

 医療の現場では、命を延ばそうと懸命な努力がつづけられています。日本初の脳死移植は三大学から医師が集まり、氷詰めにした臓器をヘリコプターや飛行機で空輸。とくに心臓は、四時間以内に体内に戻さなければならないので、一分一秒を争う戦いです。脳死判定から術後の管理まで、費用はしめて一千万円を超えるといわれます。
 やがて必ず消えゆく命、そうまで延ばして、何をするのでしょうか? 心臓移植を受けた男性が、何をしたいかと記者に聞かれて、「ビールを飲んで、ナイターを観たい」と答えています。多くの人の善意で渡米し、移植手術に成功した人が、仕事もせずギャンブルに明け暮れ、周囲を落胆させました。「寄付金を出したのはバカみたい!」支援者が憤慨したのもわかります。
 命が延びたことは良いことなのに、なぜか釈然としないのは、延びた命の目的が、曖昧模糊になっているからではないでしょうか。臓器提供者の意思の確認や、プライバシーの保護、脳死の判定基準など、二次的問題ばかりが取り上げられて、それらの根底にある「臓器移植してまでなぜ生きるのか」という確認が、少しもなされてはいないようです。
 つらい思いをして病魔と闘う目的は、ただ生きることではなく、幸福になることでしょう。
「もしあの医療で命長らえることがなかったら、この幸せにはなれなかった」と、生命の歓喜を得てこそ、真に医学が生かされるのではないでしょうか。

 医学の意義が問われる今日こそ、親鸞聖人の教えが全人類に求められているといえないだろうか。