なお行く先は山路なりけり

 藤原和博著『坂の上の坂』には、一仕事を終えた50代になっても、まだまだ坂道の続く、現代の実状がつづられている。サブタイトルには、「55歳までにやっておきたい55のこと」とある。50代を迎えても、平均寿命からいえば、あと30年は人生が続きます。その30年は、決して平坦な道ではない。まだまだ坂が続くのが、現代の「老後」なのだ。
 親鸞聖人が人生を「難度海」と仰った通り、結局、生まれてから死ぬまで、人生は苦しみの連続なのだろう。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部3章には、こう書かれている。


 ドストエフスキーはシベリアで強制労働をさせられた体験から、もっとも残酷な刑罰は、「徹底的に無益で無意味」な労働をさせることだ、と 『死の家の記録』に書いている。監獄では、受刑者にレンガを焼かせたり、壁を塗らせたり、畑をたがやさせたりしていたという。強制された苦役であっても、その仕事には目的があった。働けば食糧が生産され、家が建ってゆく。自分の働く意味を見いだせるから、苦しくとも耐えてゆける。
 しかし、こんな刑を科せられたらどうだろう。
 大きな土の山を、A地点からB地点へとうつす。汗だくになってやりとげると、せっかく移動した山を、もとの所へもどせと命じられる。それが終わると、またB地点へ……。意味も目的もない労働を、くり返し強いられたらどうなるか。受刑者は、ドストエフスキーが言うように「四、五日もしたら首をくくってしまう」か、気が狂って頭を石に打ちつけて死ぬだろう。「終わりなき苦しみ」の刑罰である。
 だが、人間の一生も、同じようなものだとはいえないだろうか。
「越えなばと 思いし峰に きてみれば なお行く先は 山路なりけり」
 病苦、肉親との死別、不慮の事故、家庭や職場での人間関係、隣近所とのいざこざ、受験地獄、出世競争、突然の解雇、借金の重荷、老後の不安……。
 ひとつの苦しみを乗りこえて、ヤレヤレと思う間もなく、別の苦しみがあらわれる。
 賽の河原の石積みで、汗と涙で築いたものがアッという間に崩されてゆく。
「こんなことになるとは」予期せぬ天災人災に、何度おどろき、悲しみ、嘆いたことだろう。
「この坂を越えたなら しあわせが待っている そんなことばを信じて 越えた七坂四十路坂」の歌(都はるみ)が流行ったのも、共感をよんだからかもしれない。
「この坂さえ越えたなら、幸せがつかめるのだ」と、必死に目の前の坂をのぼってみると、そこにはさらなる急坂がそびえている。そこでまた、よろめきながら立ち上がり、「この坂さえ越えたなら」とあえぎながらのぼってゆく。こんなことのくり返しではなかろうか。そんな人生を聖人は「生死輪転の家に、還来する」と言われているのである。