わが行は精進にして、忍びてついに悔いじ

 映画俳優だった、故・高倉健座右の銘は、「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」だったという。もとは『大無量寿経』の、「たとい身を、もろもろの苦毒の中におわるとも、わが行は精進にして、忍びてついに悔いじ」から来た言葉らしい。
 この『大無量寿経』の仏語は、阿弥陀仏が十方衆生(すべての人)を救うために、大宇宙の宝の納まった名号を創られるときの決心を、教えられたものである。
「すべての人を絶対の幸福にする働きのある名号を、どんな苦しみの中にあっても、完成してみせる。決して後悔しない。どんな苦しみが来ても、やり遂げる」という意味だ。

高森顕徹監修『なぜ生きる』2部28章にも、この仏語が引用されている。

「情けなさ、言うに及ばないけれども、今からはお前の親ではない。子とも思わない。悲しいかぎりである」
 大地に悩める聖人の、殉教的義絶状に、感動する人は少なくないのではなかろうか。
 これまでの非難に加えて、今また、
「家庭を破壊してなんの仏法か」
「生んだわが子さえ導けない親鸞が、他人を救うなど笑止千万」
 嘲笑、罵倒は嵐のごとくわき上がろう。
 もっともかもしれない。家庭破壊の張本人として、世人のひんしゅくを買うことは、充分わかっていたはずだ。
 このような潔癖さ非妥協性は、老成円熟されても一向に変わらなかった。寛容こそ美徳とする人々には、我慢のできないほどのものがあったにちがいない。
 だがもし、親子の恩愛にひかれて善鸞の言動を黙認されていたら、幾億兆の人々の真実の救いはなかったであろう。
「たとい身を、もろもろの苦毒の中におわるとも、わが行は精進にして、忍びてついに悔いじ」(たとえどんな苦難にあおうとも、決して後悔はしないであろう)
の厳しさ激しさは、ひとえに、万人共通の人生の目的ひとつを果たさせる忍従だった、と親鸞学徒は感泣せずにおれない。